2017年05月28日

奥の細道を辿るC 古河〜小山

今回は、古河〜小山までの約17キロを歩く。
旧宿場町は、古河宿から野木宿、間々田宿を通り小山宿まで。

所要時間と交通費のコストメリットを考えて、「古河」まで車で行き古河駅周辺の駐車場に車を停めてスタート。

前回のゴール地点に建つ「右 江戸道、左 日光道」と刻まれた道標に従い左の道を進み、街灯に「旧日光街道 古河宿」の旗が掲げられた商店街を数百メートルで右折し、暫く歩くと再び県道と合流。

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古河市から栃木県(野木町)入ってすぐ、県道と国道4号線と合流する付近の少し奥まったところにある野木神社を目指し本殿に参拝。
1,600年前、仁徳天皇の時代に建立された神社とのことで、境内の樹齢1,200年の大イチョウは見応えがあり、黄葉の季節にも参拝に訪れたい。
また境内には芭蕉の句碑があり、句碑の隣の立札には、冬の遊水地の様子を歌った句「一疋屋の はね馬もなし 河千鳥」と書かれている。

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野木神社から国道4号線を暫く進み、国道(旧街道)沿いの「法音寺」を訪れる。
本堂にお参りしたあと、山門の脇にある芭蕉の「道ばたの むく毛は馬に 喰われけり」の句が刻まれた句碑を見る。
解説板には安永9年(1780年)に建てられた句碑で、この句は芭蕉が「奥の細道」の旅に出る5年前、東海道を上方への旅「野ざらし紀行」に向かった際につくられた旨の説明が記載されている。

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国道4号線の70キロポストを過ぎて間々田に入る。
芭蕉と共に旅をした曾良の随行日記には「廿八日、ママダニ泊ル。カスカベヨリ九里」と記されており(※)、江戸を出て二日目の夜に泊まった宿場とされている。
今回も時間に余裕があったので、JR間々田駅の近くにある「小山市立博物館」と「車屋美術館」に立ち寄り、小山の歴史と近代美術に少し触れる。

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美術館を出て暫く歩くと「旧日光街道間々田宿 逢いの榎(間の榎)」の立札が目に留まる。
解説板を読むと「間々田宿の入り口にある榎は、江戸と日光と中間点の目印となり『間(あい)の榎』と呼ばれていたが、いつの頃からか『逢の榎』と呼ばれる様になり、縁結びの木として人々の信仰を集める様になった」とのこと。

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途中の信号で国道4号線から分岐する県道を進み、国道50号線の陸橋をくぐると旧街道は小山市街に入る。
小山本陣跡を左手に見て、本日のゴールJR小山駅に到着。

(※)奥の細道を歩く為に購入した以下の文庫本の曾良随行日記より引用。
 ・「新版 おくのほそ道(現代語訳/曾良随行日記付き)」:角川ソフィア文庫
 ・芭蕉と旅する「奥の細道」:PHP文庫
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2017年04月30日

奥の細道を辿るB 幸手〜古河

今回は、幸手〜古河までの約15キロを歩く。
旧宿場町は、幸手宿から栗橋宿、中田宿を通り古河宿まで。

前回のゴール東武日光線の「幸手駅」を午前8時にスタート。

旧日光街道に出て、一里塚跡の案内板などに足を止めながら進むと右手に桜の名所「権現堂桜堤」が見えてくる。
もちろん桜は既に散り、つい2〜3週間前は花見客で賑わっていた堤は静かな新緑の遊歩道に様変わりしている。
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中川にかかる橋を渡り、国道4号線と並行して走る旧街道を歩く。
途中、「左 日光道、右 つくば道」と石に刻まれた旧い道標に行き当たる。案内板には、安政4年(1775年)にこの場所に建てられた書かれている。
芭蕉が奥の細道を旅したのが元禄2年(1689年)なので芭蕉はこの道標を目にしていないことになるが、300年も前の姿で現代に残る重要な文化財であることは言うまでもない。

道標を後にして暫く進むと「小右衛門一里塚」がある。日本橋から十四番目(56Km)の一里塚で、土を盛った塚の形を今も留めている。
この案内板には、江戸幕府は主要街道の塚の整備を慶長9年(1604年)から始めた旨が書かれていることから、この一里塚で芭蕉も休憩したかも知れず。

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国道125号線の下をくぐると道は旧栗橋宿に入る。
街道沿いの寺に建てられた「栗橋八福神」の幟を見て、すっかり忘れていたが4年前の七福神巡りのマラニックで栗橋市街も走ったことを思い出す。

栗橋から利根川を渡ると茨城県に入り最初の旧宿場町が中田宿。
街道沿いの「光了寺」に芭蕉の句碑があることを事前に古河市のHPで調べていたので、寺に立ち寄る。
境内に入り本堂にお参りをしてから、ご住職の了解を得て句碑の写真を撮らせて頂く。
句碑には「いかめしき 音やあられの ひのき笠」の句が刻まれている。

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中田宿から古河宿間には、数ある街道の中でも最も美しい景観のひとつに数えられた松並木があったらしいが、昭和13年に道路拡張の為に樹齢300年の松が次々に伐採されて当時の面影は無くなってしまったとのこと。
平成になり松並木の復元整備が実施され、現在は旧街道の両側に新たな松が植えられている。

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旧古河宿に入り、北条氏時代の歴史小説を読んでいると古河公方というのが出てくることを思い出し、時間に余裕もあることから古河歴史博物館を訪れ古河の歴史に触れる。
この地は古河城の城下町として発展したとのことで、市内の史跡・寺社を巡る散策道には石畳が敷かれ景観も整備されている。

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「右 江戸道、左 日光道」と刻まれた日光街道古河道標まで進み、今回はJR宇都宮線の「古河駅」をゴールとする。

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2017年04月23日

奥の細道を辿るA 越谷〜幸手

第2回目は、越谷〜幸手までの約25キロを歩く。

前回のゴールJR武蔵野線「南越谷駅」を午前8時にスタート。
旧日光街道の県道49号線を暫く北上し、途中の分岐点から左の県道325号線を進み越谷市街地に入る。旧家に越谷宿の面影を残す通りを抜けて元荒川を渡ると北越谷。
北越谷駅前を過ぎた付近で左手に元荒川の堤防が見えてくる。

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元荒川は名前の通り元は荒川の本流だったが、1629年(寛永6年)に現在の熊谷市久下で荒川を堰き止めて流れを入間川方面に変える工事が行われたことから、今は元荒川と呼ばれている。
この川の起点が熊谷市ということもあり親しみを感じる。

旧国道4号線と合流した旧街道を春日部市へ向かうと、旧街道が再び春日部市街へ分岐する三叉路に東陽寺が現れる。
東陽寺は、深川を出発した芭蕉と曽良の第一日目の宿泊地とも言われおり、境内には曽良の旅日記の一文「廿七日夜 カスカベニ泊マル 江戸ヨリ九里余」が刻まれた碑が建てられている。

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春日部市は旧粕壁宿があった地で、旧街道沿いの随所に宿場町散策コースの標識が立てられており、昔の面影を残す建物には案内板が掲げられている。

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写真は旧街道の道標で「東江戸、西南いわつき」と刻まれており、裏側を見ると天保五年の文字が読めることから、その当時に建てられたと思われる。

再び旧国道4号線と合流し国道16号線を越えると、左手に見える山門(仁王門)に目が留まる。
入口の案内板に、寺の名が小淵山観音院で芭蕉の句碑や七体の円空仏があると書かれている。
仁王門をくぐり境内に入ると芭蕉の有名な句「ものいえば 唇さむし 秋の風」が刻まれた碑がある。
本堂と境内にある「役ノ行者神変大菩薩(えのぎょうじゃじんべんだいぼさつ)」に賽銭をあげてお参りし観音院をあとにする。
※帰宅後に市のホームページ等で詳しく確認すると、円空仏は県の博物館に寄託されており、観音院で行われる円空仏祭に公開されているとのこと。また、芭蕉は粕壁宿ではこの寺に宿泊したとも伝えられている。

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暫くは旧国道4号線をひたすら歩き、分岐点から県道373号線に入り旧杉戸宿を通過する。
旧杉戸宿の外れにある宝性院前の案内地図を見ると、大落古利根川岸近くに芭蕉句碑があることが分かりここにも立ち寄る。
岩を積み上げ富士山を模した富士浅間神社に埋め込まれた自然石の句碑には「八九間 空で雨ふる 柳哉」と刻まれている。

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旧杉戸宿をあとにして更に北上し、脚も疲れたてきた頃に旧幸手宿に到着。
今回は東武日光線の「幸手駅」をゴールとする。


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2017年04月10日

真田丸P 松代城跡

大河ドラマの進行に合わせて昨年から真田丸ゆかりの地を巡ってきたが、未だ行っていなかった松代城跡を長野旅行の途中で訪れる。

大阪夏の陣で真田信繁(幸村)が討死した後、上田城より移封された兄真田信之が藩主として入城し、以降は明治維新まで真田氏が松代藩を治めている。
大河ドラマの最終回では、番組の最後に「幕末まで続いた松代藩が徳川幕府を倒すきっかけをつくった佐久間象山を生み出すことになる」といった因縁めいたナレーションが入り番組が終了した。

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城跡に隣接する駐車場に車を停めて本丸跡に入り、北不明門をくぐり石垣の外に出て城跡を散策する。
天守閣は無いものの、当時から残る一部の石垣に櫓門や堀、木橋、石垣等が復元整備されており、案内板の解説を読みながら城郭をイメージする。

城跡に続いて、真田家ゆかりの武具や古文書等が展示されている「真田宝物館」と9代藩主・真田幸教により建てられた「真田邸」を訪れる。
「真田邸」ではボランティアガイドの方に案内をお願いして、丁寧な説明を受けながら様々な工夫が凝らされた各部屋や綺麗に手入れされた庭園をじっくりと見学する。

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これで一年余りかけた真田氏ゆかりの地巡りにピリオドを打つことが出来た。
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2017年04月03日

奥の細道を辿る @ 深川〜越谷

「月日は百台の過客にして、行きかふ年も・・・・」で始まる松尾芭蕉の奥の細道、中学か高校の授業で暗記をさせられたおかげで「・・・・春たてる霞の空に、白河の関超えんと」までは、今でもそらんじて言える。

以前より松尾芭蕉が歩いた奥の細道を辿ってみたいとおぼろげながら考えていたが、44年間の会社務めを終え時間に余裕が出来たことから、全行程(約2,400キロメートル)は無理でも先ずは年内に白河(福島県)までの約330キロメートルを目標に辿ることにした。

第一歩となる昨日は、深川〜越谷までの約25キロを歩く。

なるべく行程に余裕をもたせる為に、早朝に自宅を出て地下鉄の門前仲町駅に午前8時に到着。駅から深川にある「採茶庵」跡を目指す。
「採茶庵」は芭蕉が奥の細道の旅の出発点にした場所で、旅姿の芭蕉像が濡れ縁に腰を掛けている。
自分の一歩もここから始まると思うと身が引き締まる。

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採茶庵の周辺には、「芭蕉記念館」「芭蕉庵史跡展望台」と言った芭蕉ゆかりの場所がある。
開館(園)時間前なので入ることは出来ないが、以前に隅田川をマラニックで遡上した時に立ち寄り見学しているので今回はパスで良しとする。
第一次「芭蕉庵」があった跡地の稲荷神社に参拝し、隅田川河畔に出る。

芭蕉は深川から船に乗り隅田川を千住まで溯ったが、この時間は水上バスも運航していないことから川沿いに遊歩道を言問橋まで歩き、旧日光街道に出て千住大橋を目指す。

千住大橋を渡るといよいよ芭蕉が歩いた足跡を辿ることになる。
最初に通過するのが旧日光街道の千住宿、旧街道沿いに様々な店が軒を連ねる商店街が宿場町の賑わいを残している。
テレビのぶらり散歩旅にでも登場しそうな雰囲気の商店街を通り抜ける途中、朝が早く小腹も空いたことから、だんご屋さんで磯部団子を一串買って店先で立ち食いさせて頂く。

千住新橋を渡り足立区を北上し埼玉県に入り、谷塚を通過すると旧日光街道の2番目の宿場町「草加」に入る。
芭蕉はここでも足跡を残し、奥の細道に「その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり」と記している(実際に芭蕉が初日の宿にしたのは、その先の粕壁(春日部)と言われているが)。

草加には旧日光街道沿いに松並木を再現した草加松原遊歩道が整備されており、1.5キロメートルに亘る遊歩道沿いに松尾芭蕉像や奥の細道にちなんだ記念碑等が建てられている。

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草加から越谷方面を目指し、旧日光街道沿いに唯一残っている一里塚「蒲生の一里塚」を見ながら歩を進め、JR武蔵野線の南越谷駅にたどり着く。
交通の便を考えてこの日は南越谷駅をゴールとする。

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2016年12月30日

真田丸 真田家ゆかりの地巡りを振り返って

今年の大河ドラマ「真田丸」もついに最終回が終わり、今日放送された総集編であらためて物語りを振り返る。
この一年は真田丸に嵌り、ドラマの進行に合わせて数々の真田家ゆかりの史跡等を訪れる。

3月6日:神流川古戦場(埼玉県)
4月9日:潜龍院跡、岩櫃城跡(群馬県)
4月30日:箕輪城跡(群馬県)
5月28日:真田氏館跡、真田氏本城跡、砥石城跡、米山城跡、上田城跡(長野県)
6月4日:江戸東京博物館「真田丸展」(東京都)
6月12日:名胡桃城跡、沼田城跡(群馬県)
6月25日:宇都宮城(栃木県)
7月2日:鉢形城跡(埼玉県)
7月17日:忍城跡(埼玉県)
9月3日:薬師堂(犬伏)、小山評定跡(栃木県)
10月29日:勝願寺(埼玉県)
11月10日:九度山(和歌山県)、真田丸跡(大阪)
11月11日:大阪城、天王寺(大阪)
11月12日:二条城(京都)              

ドラマのオープニング映像に登場する奇岩に覆われた岩櫃山に興味をそそられ、暖かくなったら出掛けてみようと思ったのが「真田家ゆかりの地巡り」の始まりだった。
その後、どの史跡もなるべくウォーキングとジョギングを組み入れて訪れたこともあり、アプローチの景色と一緒に記憶が蘇ってくる。
ドラマとゆかりの地巡りのコラボレーションを楽しんだ一年間だった。

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来年の大河ドラマ「井伊直虎」、既に小説を読み物語のあらすじは分かっているが、どの様なドラマになるか今から楽しみにしている。
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2016年12月14日

真田丸O 天王寺

大河ドラマ「真田丸」もいよいよ次回の放送が最終回。
大阪夏の陣、天王寺口の戦いにおいて真田幸村が最期を遂げることになる。

実は大阪を訪れた時に、通天閣へ向かう為に天王寺駅で降りて天王寺公園内を通り抜けたのだが、不覚にも、公園内に真田幸村が本陣を置いた茶臼山と近辺に幸村終焉の地があることを全く知らずに歩いていた。
(茶臼山は、大阪冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村が本陣を置いている)

大阪方面へ出掛ける前の下調べ不足と言うか、とにかく「九度山」と「真田丸」に行ってみたいと言う気持が強く、幸村終焉の地まで調べるに至らなかった。
ドラマが進み、夏の陣に関する情報を調べているうちに、天王寺口の戦いのことを知る。
もし事前に調べていれば、公園内にあるゆかりの史跡をじっくりと散策したのだが。

しかし、偶然とは言え、自分で設定した観光ルートの途中で幸村激戦と終焉の地の景色を目に入れることが出来たのは、一年間かけて数々の真田家ゆかりの地を巡ってきた自分に、ちょっとした運が導いてくれたのかも知れない。

写真は、天王寺公園と通天閣
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2016年11月23日

真田丸N 二条城(京都)

大阪を観光した翌日京都に立ち寄り二条城を訪れる。

二条城は関ケ原の戦いのあと江戸幕府を開いた徳川家康と豊臣秀吉の子秀頼との会見が行われた場所。
この会見で秀頼の成長ぶりに危機感を持った家康が豊臣家を滅ぼすことを決意し、大阪の陣のきっかけになったとも言われている。

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二の丸御殿の中に入り、うぐいす張りの廊下を歩きながら会見の場となった「遠侍の間」や、徳川慶喜が大政奉還を行った「大広間」等を間近で見る。

江戸幕府の始まりとともに築かれた二条城が、幕府の終わりを宣言する舞台にもなったことになる。
当時のまま残る御殿内を、その様な思いであらためて眺めてみると感慨深いものがある。
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2016年11月13日

真田丸M 九度山(和歌山)〜真田丸跡(大阪)

関ケ原の戦いで石田三成ひきいる西軍が敗れ、真田昌幸、信繁(幸村)親子が幽閉された「九度山」と、大阪冬の陣で真田幸村が築いた「真田丸跡」を訪れる。

早朝に自宅を出て大阪へ向かい、難波駅から南海電鉄高野山線に乗り九度山駅に着く。
紀ノ川と丹生川に挟まれた九度山町の背後には山なみが連なり、真田親子が幽閉されていた頃は山あいに田畑と集落が点在する村だったと想像出来る。

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駅を降りて六文銭の幟が並ぶ商店街を歩き道標に従い細い坂道を下ると、真田親子が蟄居していた屋敷跡に建つ寺院「善名称院」に着く。
山門にはそれを示す様に「真田庵」の文字が刻まれており、山門をくぐった境内は本堂以外にも堂や真田昌幸の墓があり、真田ゆかりの品々を展示した「真田宝物資料館」も建っている。

当時の痕跡は残っていないものの、真田親子と一族が十数年に亘り住んでいた地を訪れることが出来たことに満足。

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九度山から大阪市内に戻りいよいよ真田丸跡を訪ねる。

真田丸は大阪冬の陣の後に徳川軍により壊され埋められてしまった為に、出城の場所は諸説あるとのことだが、JR玉造駅の西側にあったのは間違いないらしい。
事前に準備した真田丸推定地と現在の地図をオーバラップした案内図をたよりに歩く。

地下鉄の玉造駅で降り、最初に目指したのが三光神社。
三光神社は従来から真田丸跡として知られており、境内には真田幸村像と「真田の抜け穴跡」がある。
抜け穴跡の入り口は鉄柵で塞がれているが、真田幸村が大阪の陣の際に大阪城まで抜ける地下道を掘ったと跡と伝えられている。

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三光神社から更に西へ進み、大阪明星学園グラウンド前に建つ「真田丸顕彰碑」を訪れる。
最近の説では、真田丸は大阪明星学園の場所にあったとする説が有力らしく、顕彰碑も今年建てられた真新しいもの。
生徒の作品か、校舎の壁には真田幸村と思われる武将が描かれている。
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右の写真は明星学園を坂の下から撮ったものだが、坂道を隔てた左側の「心眼寺」には真田幸村の墓がある。

三光神社と明星学園は数百メートルしか離れておらず、真田丸の攻防戦がこの辺りであったことは間違いない。案内図を見ながら真田丸の堀があった推定地を辿って付近一帯を歩いてみるが道に迷い、最終的にはスマホのお世話になり駅まで戻る。


真田丸にはあまり興味が無く遅れてやって来たカミさんと娘にホテルで合流し、翌日は大阪観光を兼ねて大阪城等を訪れる。

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偶然にも昨夜の「ブラタモリ」で大阪城と真田丸が特集されていたが、番組の中で、現在の天守閣の基礎は、豊臣秀吉が建てた大阪城の石垣を埋めつくし盛土し、その上に石垣が築かれたと紹介されていた。
二代将軍徳川秀忠の命により、豊臣家の痕跡は全て無くしたらしい。

ところが、天守閣の各フロアに展示されているのは、豊臣秀吉ゆかりの品々や秀吉の生涯を紹介するコーナー等でほとんど占められており、現代になり豊臣家が再び大阪城に返り咲いた様でおもしろい。
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2016年10月30日

真田丸L 勝願寺

昨日は高崎線鴻巣駅近くの「勝願寺」を目指して、自宅から17号線、旧中仙道沿いに約22Kmを走る。

勝願寺には真田信之の正妻「小松姫」と信之の三男「真田信重」の墓がある。
今年になって高碕線鴻巣駅のホームに六文銭の幟が何本も立てられているのが目に留まり、鴻巣市で真田家にゆかりのある史跡を調べて知ったのだが。

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「小松姫」は本田忠勝の娘で、徳川家康の養女となり真田信幸(後に、信之)に嫁いでおり、大河ドラマでは吉田羊が小松姫を演じている。
犬伏で親子三人が敵味方に分かれた後に、真田昌幸と信繁親子が沼田城に立ち寄ろうとした際に、既に夫・信之の敵となった昌幸・信繁を一歩たりと入城させなかった小松姫の有名な逸話は、大河ドラマの場面でも取り上げられた。
その小松姫も、大阪夏の陣が終わって5年後の1620年、病の療養のため江戸藩邸から草津に向かう途中、鴻巣で亡くなり、ここ勝願寺にも墓が設けられたとのこと。

またここには、豊臣秀吉の家臣で後に徳川家康に仕え小諸藩主となった仙石秀久の墓も、小松姫、真田信重と共に建っており、並ぶ三人の墓に手を合わせてくる。

この8ヶ月間で関東地方と長野県(松代城を除き)の「真田丸ゆかりの地」はほぼ訪れたことになり、いよいよ11月中旬には九度山(和歌山県)と真田丸(大阪城)を巡る予定で準備を進めている。
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2016年09月04日

真田丸K 犬伏と小山評定跡

今夜放送予定の大河ドラマ「真田丸」第35話は「犬伏」。
新聞の番組欄で「真田家の物語で最も有名な逸話犬伏の別れ」と紹介されている様に、真田家が決別するクライマックスの場面を迎える。

昨日は、放送より一足先に、犬伏の別れの舞台となる佐野市の「新町薬師堂」と小山評定の会議が開かれた「小山評定跡」を訪れる。
今回はマラニックを兼ねて、「東武佐野駅 〜 犬伏(新町薬師堂) 〜 小山評定跡 〜 JR小山駅」間の約24キロを走る。

佐野駅から小山方面に3キロほど走ると、関ケ原の戦いを前にして真田父子が決別の密談をおこなった犬伏の「新町薬師堂」に着く。
それほど広くない敷地にひっそりと建つ薬師堂が、逆に密談に相応しい場所にも思える。
薬師堂の中は仏間と連なる十畳ほどの広さで、見学者向きにと思われるが、三人の密談を再現するかの様に真田昌幸・信幸・信繁を模した鎧が三体並んでいる。
たまたま清掃にみえていた地域の方は、テレビで取り上げられていることを喜ばれている様で、「明日は、上田市から薬師堂に太鼓がやってきて叩かれる」と言った話も伺う。

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新町薬師堂を後にして小山市にある小山評定跡を目指してひたすら走るが、朝の天気予報の「曇りのち雨」が嘘の様に晴れ上がり、ジリジリと照りつける日差しが疲れに拍車をかける。
コース沿いのコンビニに何度も立ち寄り、その都度しばらく冷房で身体を冷やして給水用の飲料水を買い、小山までに5本のペットボトルを消費する。
走っている途中で出会ったおばあさんの「大変ですねー。がんばってください」の声を励みに、ようやく小山市にたどり着く。

評定跡は小山市役所の敷地内にある。
当時の痕跡は何も残っておらず、「史跡 小山評定跡」の碑と「小山評定の由来」を記した石碑が建てられているだけだが、関ケ原の戦いで徳川家康を勝利に導く軍議が行われた歴史的に重要な場所である。
石碑前に植えられた芝生の木陰に座り、家康をはじめとして軍議に参加した諸将の様子を思い描きながら疲れを癒す。

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評定跡から小山駅までは駅前の繁華街をゆっくり歩き、小山駅から電車で帰途につく。
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2016年08月11日

真田丸J 出浦渕

前回のドラマでは、真田昌幸から徳川家康暗殺の依頼を受けた忍びの出浦昌相が、家康の部屋の天井裏に潜み暗殺の機会をうかがうも気づかれてしまい、本田忠勝との一騎打ちの末、瀕死の重傷を負い真田屋敷に担ぎ込まれることになる。

真田昌幸との会話が出浦昌相の最期を予感させ、生死のほどが気懸りな場面だった。
史実では、出浦昌相は関ケ原の戦いの後も生存し78歳で亡くなったとされていることもあり、ドラマでも再び登場するのか興味を誘う。

その出浦昌相は岩櫃城の最後の城代を務めており、その当時の屋敷跡が「出浦渕」と呼ばれ今も残っている。
4月に岩櫃城跡を訪れた際の記事でも少し触れているが、岩櫃山の麓を通る「真田道」と呼ばれる街道沿いにある。当時の痕跡は残っていないが、整地された一画に屋敷があったことを示す案内板が立てられている。

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2016年07月18日

真田丸I 忍城跡

前回の鉢形城と同じく北条氏の支城で、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、石田三成が率いる2万を超える大軍と水攻めに遭いながらも小田原城降伏まで籠城で耐えきった忍城。
小説や映画「のぼうの城」の舞台にもなった城だが、真田氏ともゆかりがある。

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忍城攻めには真田昌幸・信繁親子も豊臣軍として参戦し「持田口」の攻撃を任されたとされている。この「持田口」の攻防戦には忍城方から城主成田氏長の娘甲斐姫も参戦し、真田軍を相手に戦っている。
(後に大阪夏の陣では、豊臣方になっていた甲斐姫は真田信繁と共に大阪城を守ったと言った説もある様だ)

忍城跡は以前に数回訪れていることもあり、今回は連休で遊びに来ていた娘夫婦と「古代蓮公園」へ蓮を見に行ったに帰りに、復元された「御三階櫓」の外観だけを案内する。
その代わりと言うわけではないが、古代蓮公園で行われていたイベントに出演していた「忍城おもてなし甲冑隊」(※)の演舞を楽しんでくる。

(※)忍城おもてなし甲冑隊
のぼうの城で描かれた城代成田長親、甲斐姫や忍城攻めの際に活躍した成田家の武将に扮して演舞パフォーマンスを披露し、行田市と忍城のPR活動を行っているチーム。

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2016年07月03日

真田丸H 鉢形城跡

宇都宮城を舞台にした宇都宮仕置きから1ヶ月余り溯るが、豊臣秀吉の小田原攻めの際に前田利家・上杉景勝・真田昌幸等の軍に包囲され籠城の後に6月14に開城したのが鉢形城。
今週末はこの鉢形城跡を訪れる。

秩父鉄道の寄居駅南口から歩くこと10数分で、荒川の対岸に鉢形城跡が見えてくる。

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鉢形城攻めの際に真田昌幸は荒川の対岸に布陣したとされていることから、写真と同じ景色を眺めていたのではないかと想像してみる。
鉢形城は、この荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に城の中心部が築かれていたとのこと。

城跡は平成9年から13年にかけて行われた発掘調査の成果をもとに、復元整備が行われたと市のホームページに紹介されているだけのことはあり、広大な敷地の随所に土塁・堀や門等が当時のままの様に再現されている。

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笹曲輪・本曲輪・二の曲輪・三の曲輪・外曲輪等と1キロ余りを歩き、深沢川の対岸にある鉢形城歴史館に立ち寄る。
展示室はそれほど広くないが、鉢形城の歴史を時代毎に解説する複数台のモニターや城郭のジオラマと連動したスクリーンで鉢形城のバーチャルツアーを体験出来るコーナー等が常設されており、親しみ易い工夫が凝らされている。

歴史館を出た後は外曲輪の土塁に沿って笹曲輪に戻り、荒川に架かる昌喜橋を渡り寄居駅まで歩く。

先週訪れた宇都宮城跡は、城跡が市民の憩いの場にもなる様に復元整備(公園整備)された感じを受けたが、鉢形城跡は、発掘調査を基に広大な敷地全体を当時の姿に復元することを目的に整備されている感があり見応えがあった。

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2016年06月26日

真田丸G 宇都宮城跡

今週末は宇都宮へ出掛ける用事があり、その途中で宇都宮城跡を訪れる。
宇都宮城は前回のドラマで、北条氏を滅亡させた秀吉が入城し、奥羽諸大名に対する仕置き(宇都宮仕置)を行った城として登場している。

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城跡は城址公園として整備されており、堀や土塁の一部と櫓(富士見櫓、清明台)が復元されている。
土塁の下に設けられた展示館には、発掘調査の出土品や、本多正純が城主の時代に整備した城下町や宇都宮城のジオラマ等が展示されており、ボランティアで案内をされている方から丁寧な説明を受ける。

築城当時の遺構は残っていないとの事で残念だが、この地で徳川家康、伊達正宗と言った名だたる戦国大名や真田昌幸らが顔を揃えた史実は変わることがなく、歴史の舞台になった場所として興味をそそられた。
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2016年06月12日

真田丸F 名胡桃城跡から沼田城跡へ

ドラマの展開が意外に速く、前回の放送では沼田城の所有権を真田氏と今川氏が争い談判する「沼田裁定」から、豊臣秀吉の北条攻めの引き金となった「名胡桃城事件」まで進んでしまった。

出来ればドラマの進行に合わせて真田氏ゆかりの地を訪れたいと考えていたこともあり、今週末は名胡桃城跡から沼田城跡を歩いて巡る。
コースは、「JR後閑駅 〜 胡桃城跡 〜 沼田城跡 〜 JR沼田駅」の十数キロ

JR上越線「後閑駅」で降り、沼田方面に1キロ程戻り国道17号線に出る。17号線を右折して眼下に利根川を眺めながら名胡桃城跡まで続く長い上り坂を歩く。
秀吉は、この利根川を境に西側を真田氏、東側を北条氏に裁定したのだが・・・。

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名胡桃城跡に着くと、17号線が城跡の一部を通過していることもあってか、駐車場に車を停めて案内所や史跡を見学している人も結構いる。

城跡は2015年に保存整備工事が行われ、三郭・二郭・本郭間の空堀に架けられていた木橋や門が復元されている。
尾根の先端にある「ささ郭」に立つと、眼下の利根川とこれから向かう沼田方面を見渡すことが出来、この場所に山城があったことを実感する。

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「名胡桃城跡」から「沼田城跡」へ向かう。
先ほど上ってきた17号線を逆に下り、月夜野インター辺りから沼田市に続く県道を歩く。
沼田市に入り沼田城跡公園までの道を地図で見ると、公園までは車道が大きく蛇行して河岸段丘を上っているが、直登出来そうな細い道がある。
民家の間につけられた細い道を真っ直ぐに登り始めると、道は途中から石段に変わり、息が切れて足が疲れた頃に公園前の道路に飛び出る。

ドラマの影響か、公園の駐車場はほぼ満杯の賑わい。
沼田城は、北条氏征伐後に真田信幸が城主となり五層の天守閣や櫓・門を建造したと紹介されているが、市民の憩いの場として公園に整備されていることもあり城郭のイメージを浮かべるのは難しい。

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ただ、公園内を一周すると真田氏当時の石垣・石段の名残りや鐘楼(復元)などがあり、平野部を隔てて名胡桃城があった尾根を望むことも出来る。

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1時間に1本の電車の時刻が近づいたので、地図を確認し沼田駅方面へ向う。
市街地がそのまま駅前に続いている様なつもりで暫く歩いていくと、駅がはるか眼下に見えて少し焦りながら坂を下る。
河岸段丘により隔てられた沼田市の中心街と駅の高低差に驚いてしまう。

帰路は、利根川を縫うように走る上越線の窓からの緑の景色を眺めているうちに眠ってしまい、夢うつつのまま高崎駅に着く。

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2016年06月05日

真田丸E 江戸東京博物館

昨日、江戸東京博物館で開催されている特別展「真田丸」に出掛けてくる。

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開場時間の9時30分過ぎに会場に着くと特別展示室内は既に見学者の列が出来ており、展示物を順番に眺めながらゆっくり進む。
ドラマ真田丸の時代に沿って、真田昌幸・信之・信繁や当時の武将ゆかりの書状、絵屏風、武具などが数多く展示されている。

特に当時から残る書状が多く展示されており、最初のうちは書状と解説パネルを見比べながら内容を確認していたが、古文書が全く判読できず、途中で解説パネルだけを読みながら進んでいることに気付いてしまう。
句読点も無くくずした様な字体で書かれた書状のみで、行き違いなく指示や意思疎通が図れていたのだから感心してしまう。

また、「川中島」「長篠」「関ケ原」「大阪夏の陣」の合戦屏風絵も出展されており、戦う人物が克明に描かれていると共にひとりひとり表情も異なり、時間をかけて見ていても飽きないほどだった。

見学に1時間半あまりかけたが、興味を惹かれる品々も多く見応えがあった。

天気も良く、江戸東京博物館を出てからは隅田川に沿って浅草まで遊歩道を歩き、浅草をぶらっとして昼食(&生ビール)をとり更に上野駅まで歩き帰路につく。
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2016年05月29日

真田丸D 真田の郷を歩く

ドラマでは真田氏の本拠地が上田城に移ったが、やはり真田一族発祥の地を一度は訪れてみたいと思い、真田氏の史跡が点在する真田の郷を歩いて巡る。
コースは、
真田氏発祥の郷碑 〜 真田氏館跡・真田氏歴史館 〜 真田氏本城跡 〜 砥石城跡 〜 米山城跡 〜(バス移動)〜 上田城跡

上田駅から菅平行のバスに乗り、途中の下原バス停で下車。
停留所の向いある小さな公園に「真田太平記」作者の池波正太郎さんの字による「真田氏発祥の郷」碑や真田家三代に亘る当主のレリーフがあり、ここから真田の郷巡りをスタートする。

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碑のある公園から荒井経由でなだらかな上り勾配の道を5kmほど歩き、最初の目的地「真田氏館跡」に着く。
館跡には「皇大神宮」が建てられており、敷地内には当時の土塁の跡が残っている。
「皇大神宮」は、真田昌幸が真田氏の館を上田城へ移すにあたり、この地が荒廃することの無い様に招いたとのこと。
「真田氏館跡」に隣接する「真田歴史館」に入り、真田氏ゆかりの書状や武具などを見学する。
真田郷を俯瞰したジオラマや真田氏の歴史をわかり易く解説する電光表示盤などもあり、展示室は一室ながらも展示物が充実している。

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「真田屋敷跡」から北方に2Kmほど歩き、小高い山の上に残る「真田本城跡」に登る。城跡の敷地は本丸跡から二の郭、三の郭跡が尾根上に続く。
ここからは、真田の郷や幾つかの山城があった周囲の山々を一望することが出来、本城が戦略上重要な位置にあったことが良く分かる。
真田の郷を隔てた向かいには、これから向かう「砥石城跡」がある峰を望むことも出来る。

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本城跡から「砥石城跡」の登山口までは真田の郷を上田方面へ3Kmほど下る。
この辺りは今が田植えの時期の様で、家族総出で田植えが行われている景色を随所に眺めながら歩く。

「砥石城跡」は登山口から尾根上の登山道を30分足らずの登りで辿り着くことが出来るが、終盤の急階段がきつく、何度も立ち止まり息を整えながらようやく城跡に到着。
(写真では緩やかな様に見えるが急な階段が目の前に立ちはだかり、下る時に数えた段数は400段を超えていた)。
「砥石城」は標高800mに築かれており、武田信玄が大軍をもっても攻め落とすことが出来なかった堅牢な山城。
この様な高所に山城を築きあげた当時の人々の苦労の大変さを想像する。

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「砥石城跡」から鞍部を隔てた「米山城跡」へ向かうが、頂上の城跡に大きな蜂が数匹旋回しており、城跡碑の写真を撮ることなく退却。
登山口の模擬砦に「スズメ蜂の巣に注意」の看板があったことを思い出す。

登山口に近い伊勢山バス停から上田行きバスに乗り上田駅まで戻る。
今日は真田の郷だけを巡るつもりで来ていたが、時間に余裕が出来たことから「上田城跡」を1時間ほどかけてじっくり散策する。
2年半前に上田城跡を訪れた時とはうって変り、真田丸ブームの影響で大勢の観光客が訪れ(自分もそのひとりだが)賑わっており、東虎口櫓門の前には屋台も出現している。

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最後に市内にある「池波正太郎記念館」を見学し上田駅へ戻り、新幹線車内で冷えた缶ビールで乾いた喉を潤しながら帰路につく。
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2016年05月01日

真田丸C 箕輪城跡

高崎市近郊の箕輪城跡へ出掛ける。
日本百名城に選定されている城だが建物は現存しておらず、丘陵上に築城当時の堀や石垣などの遺構があり、平成10年から発掘調査が行われ現在は史跡の環境整備が進められている。

大河ドラマ「真田丸」では、神流川の戦いで今川軍に敗れた織田勢の滝川一益が箕輪城へ退却したことから、一益に母を人質にとられている真田昌幸が城に入り、伊勢へ戻る事を告げる一益と城内で酒を酌み交わす場面があった。

出掛ける前に城の歴史を少し調べたが、1500年前後に長野業尚により築かれ、その後は長野氏、武田氏、織田氏、北条氏と城主が代わり、徳川家康の時代に井伊直政が治めるも8年後に居城を高崎に移し、箕輪城は廃城になったとのこと。

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当初は高崎駅から城跡まで歩くことも考えていたが、所要時間と脚力を考慮し路線バスを利用する。
箕郷手前の四谷バス停で降り、箕郷支所の休日窓口でパンフレットを貰い、城跡のある丘陵を目指して緩やかな坂道を上ること20分程で「大手虎韜門口」に着く。

「大手虎韜門口」から「大堀切」と呼ばれる大規模の空堀を登り尾根上に出るが、当時の門の復元工事が行われており「二の丸」方面へ通り抜けが出来ず、一旦「搦手口」まで下り、「二の丸」があった丘上を目指して再び坂を上る。
「二の丸」跡で地元の方から見学コースの説明を受け、先ずは代表的な順路に従い「本丸南堀」を通り「御前曲輪」、「本丸」の跡等を巡る。

順路を一回りした後も時間に余裕があったことから、パンフレットの城郭図を片手に東西約500m、南北約1,100mの広さと言われる城内につけられた遊歩道をくまなく歩き、ようやく城郭全体のイメージが湧いてくる。
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巨大な空堀や河原から運んだと思われる大小の石で組まれた石垣をじっくり見ていると、城の攻防戦の歴史もさることながら、築城に費やされたにちがいない大変な労力とそれを負担した人々にも思いを馳せてしまう。

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2016年04月09日

真田丸B 岩櫃城跡と岩櫃山登山

ドラマ「真田丸」のオープニング映像に登場する断崖絶壁の岩櫃山(標高802m)と真田昌幸も城主をつとめた岩櫃城跡を訪れる。
(東吾妻町の公式ホームページでは、オープニングは岩櫃山と日本各地のロケ映像を組み合わせた映像と紹介されている)

平野部では既に葉桜に変わり始めているが、吾妻川に沿って山間部を走るJR吾妻線沿いは開花が数日遅く、満開の桜が随所で咲き誇る景色を車窓から楽しむ。
郷原駅で降り、登山口を目指して集落の坂道を登るにしたがい岩櫃山の全容が迫ってくる。

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途中の道標にしたがい進み、最初に立ち寄ったのが「潜龍院」跡。
石垣しか残っていないが、ドラマの第1話で、織田・徳川軍に攻められた武田勝頼を救う為に真田昌幸が一足先に岩櫃城へ戻る場面があり、その時に勝頼を迎える為に造った御殿の跡。
(その後、武田勝頼は家臣の小山田信茂の謀反にあい天目山の戦いで敗れ自刀し、この地にくることはなかったが)

「潜龍院」跡から岩櫃山に登り(後述)、下山途中に山の中腹にある岩櫃城の本丸跡を訪ね、城郭のイメージを浮かべながら昼食のおにぎりを頬張る。
本丸跡から、二の丸、殿邸、中城があった場所を巡って案内所のある群馬原駅側の登山口に下り立つ。

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登山口からは、真田道と呼ばれる山腹の細い道を歩き、朝スタートした郷原駅を目指す。
途中で、出浦渕の案内板が立つ広い台地の脇を通ると、案内板に「出浦昌相の屋敷跡」云々と書かれている。ドラマで真田昌幸に仕える出浦昌相の役を演じている寺島進の渋い顔がつい浮かんでしまう。
山あいの真田道では誰に会うこともなく、静かな山歩きを楽しみながら原郷駅に戻る。

<岩櫃山登山>
後述とした岩櫃山登山は、「潜龍院」跡から地図に「赤岩通り」と書かれた登山道を登り頂上を目指すが、地図上で短い道を選んだ分だけ急登を強いられることになり、途中の尾根上に出たときは情けないが完全にバテた状態。
少し休憩をとり気を取り直して、所々に設置されているクサリ場や鉄梯子を辿り頂上を目指す。

頭上から聞こえる登山者の賑やかな声に頂上かと思い登り切った場所は、頂上手前のピーク。
ピークから鞍部を隔てた頂上を眺めると、急な岩場に張られた鎖を頼りに登っている登山者の姿が見える。

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気持を引き締めてピークから鎖を伝い一旦鞍部に降り頂上直下まで進み、岩峰に取り付けられた鎖を慎重に登る。
頂上の標識が立つ場所は人ふたりが立てるかどうか。
片手で標識の鉄棒を掴み恐る恐る麓を眺めたが、断崖絶壁の真下に見える集落に足がすくむ。

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久々の山登りに体力不足を痛感したが、頂上に立ち心地良い満足感に浸りながら山を下りる。
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2016年03月06日

真田丸A 神流川

大河ドラマ「真田丸」第7話、本能寺の変で信長が討たれた約2週間後、織田との同盟を破り上野(群馬)へ北上した北条軍と、武田家を滅ぼし上野(群馬)を治めて間もない滝川一益(織田軍)が争い、滝川一益が敗れる。

この北条と滝川一益の戦いは、現在の武蔵(埼玉)と上野(群馬)の県境を流れる神流川を舞台におこなわれ、「神流川の戦い」と呼ばれている。

真田丸ゆかりの地、先ずは神流川の戦いが行われた場所を訪れてみる。

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北条軍50,000と滝川軍18,000の大軍による戦いの場となった神流川。
激戦当日は、右岸に北条軍、左岸に滝川軍が展開していたかも知れず。

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滝川一益が本陣を敷いた軍配山古墳。
頂までの道を登ると、思っていた以上に四方の見晴しが広がる。

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2015年03月29日

地元の文化財を訪れる

以前から熊谷市内に「根岸家長屋門」と呼ばれる史跡があることはガイドマップ等で知っていたが、訪れたことは無かった。
ところが今月号の市報に、この長屋門を構える「根岸家」が、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」に登場する久坂玄瑞、小田村伊之助(後に、熊谷県の県令となる楫取素彦)と交流を持ち、両名が滞在したと紹介されていたことから出掛けてみる。
※ドラマでは両者を東出昌大と大沢たかおが演じている。

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長屋門は、江戸時代に建造された建物で数年前に補修工事が行われている。
長屋門に入ると、江戸末期に尊王攘夷派の志士と交流を持った根岸友山(ねぎしゆうざん)ゆかりの品も展示されており、久坂玄瑞からの書状が眼に留まる。
友山の一生を紹介するDVDとテレビが置かれていたので、30分余りのDVD(と言っても、内容は紙芝居風)を鑑賞。

今回知ることになった根岸友山の一生を少し紹介させて頂くと、
裕福な根岸家に生まれた友山は子供の頃から文武両道に励み、剣術は北辰一刀流の千葉周作に学び、16歳の時にこの地域の名主の地位を引き継ぐ。
名主として治水事業に尽くすが、荒川堤の修復に関する騒動で農民勢を弁護したことから幕府から「江戸十里四方追放刑」の処罰を受けることになり、十数年後にようやく放免されて村に戻る。
その後、長州藩や尊王攘夷派の志士と交流を持つ様になり討幕に身を投じていく事になる。この頃、友山は既に54歳。
一時京都で新撰組(佐幕派)の近藤勇らと行動を共にしており複雑な時期もあるが、激動の幕末を討幕に身を捧げ生き抜いたあとは村政に尽くしたとされている。

ひょんなことから、ドラマ「花燃ゆ」につながる人物が熊谷の地にいた事を知り、身近にある地元の文化財を興味深く訪れる機会が持てた。
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2014年08月12日

千本松原

台風11号が西日本を横断し、三重県に大雨特別警報が発令されていた9、10日に岐阜県と三重県に帰省し、台風の影響をまともに受けてしまう。
台風が去った11日、帰路の名神高速岐阜羽島ICに向かう途中、木曽三川公園に立ち寄り展望台から長良川・揖斐川を眺める。

写真中央にのびる緑の堤が「千本松原」と呼ばれ、長良川(左)と揖斐川(右)の流れを分けているが、この「千本松原」には治水工事に携わった人々の苦難の歴史がある。
東海地方では有名な史話なので少し紹介させて貰います。

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古くからこの地域は木曽川、長良川、揖斐川の流れが接近し合流していた。
その為、大雨の度に川が氾濫し水害による甚大な被害がもたらされ、江戸時代に、幕府はこの流れを堤で分流する治水工事を尾張から遠く離れた外様大名の薩摩藩に命じる。
幕府の命令を受け、遠く故郷を離れて尾張の地にやって来た薩摩藩士が工事に臨むが、多数の犠牲者がでる難工事となる。ようやく治水工事が完成した後には、工事監督を行った薩摩家老平田靫負は責任をとって自害をする。
その後、犠牲者を弔うために薩摩藩士の手により植えられた松が育ち「千本松原」と呼ばれている。

展望台から松並木が続く堤を眺めていると、大河を分流する治水工事がいかに困難だったか推測できると共に、難工事をやり遂げた薩摩藩士に対して畏敬の気持ちが湧いてくる。
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